叔母が死んだと聞かされた時、心に浮かんだのは悲しみよりもどこかホッとしたような安心感だった。
いつから自分は叔母を敬遠するようになったのだろう?
叔母の家には本当によく遊びに行った。
特に夏休みにはほとんど滞在しっぱなしだった。
子供の頃の私は叔母の家に行くことは何よりも楽しみだったし、叔母も私を可愛がってくれた。
どんなにワガママを言ってもそれに応じてくれ、家にいる時はやらなければいけない家事の手伝いも、叔母はやらせようとはしなかった。
普段しつけに厳しい母も何故かそんな叔母と私の関係は容認してくれた。
「叔母さまの子供になったつもりで甘えてらっしゃい」
母の言葉の本当の意味を知ったのは、叔母の家に出かけた最後の夏だった。
早くに夫を亡くした叔母には、一人の娘がいた。
しかし、その娘は私が生まれてすぐの頃に行方不明にになってしまったそうだ。
叔母の嘆きは大変なものだったという。
方々手を尽くしたが見つからず、以来、その娘は生死不明のまま今日に至る。
静香という名前のその娘がいなくなった時、彼女の年齢は八歳だったそうだ。
今にして思えば、私に対する叔母の態度が変わったように感じられたのは、
私が十歳になろうという頃だったような気がする。
それまで私をべたべたといってよいほどまとわりついてきた叔母が、
私の体に触れるのを嫌がっているような、それでいて距離を置いてじっと観察しているような、そんな接し方をするようになった。
叔母の中で永遠に八歳のままの静香。
その年齢を超えゆく私に叔母は嫌悪感を覚えたようだった。
葬式はさみしいものだった。私の一家以外に身寄りは無く、近所付き合いもほとんど無い叔母だったから、
参列者も両手で数えられるほどだった。
寺に行く両親には付き合わずに叔母の家に一人戻った私は、
久しぶりの、そのくせ少しも変わっていない叔母の家の居間を眺めた。
燃えさしの薪が残るくすんだ暖炉、滅多に弾かれることがなかったグランドピアノもそのままだった。
そして、そのピアノの上の一体のビスクドール。
その人形は叔母の宝物だった。叔母の手作りと聞いたことがある。
これだけは私のおねだりなら何でも聞いてくれたおばが、どんなに頼んでも触らせてくれなかった。
そっと人形の頬に触れてみた。冷たい感触が伝わってくる。
きっと私が現れる前。そして私が来なくなってしまった後、
この人形が叔母にとっては静香の身代わりだったのだろう。
私と違って人形は年を取らない。
そう思って見ると、やはりこの人形も八歳くらいに見える。
「お棺の中に居れてあげたほうが良かったかもね」
誰にともなく私がそう呟いた時、私の耳ははっきりとその言葉を捉えた。
「・・・いや」
思わず辺りを見回したが、勿論誰もいない。
「・・・お母さん・・・」
また声がした。その声は人形のほうから聞こえたような気がする。
風が窓ガラスをガタガタと揺らした。
部屋の温度が急に下がったように感じられた。
私は恐る恐るに人形に近づいた。ガラスの眼に蒼ざめた私の顔が映っている。
人形がしゃべるはずはないと思うが、それでも何故か二度と人形に触れたくないような気がした。
「お母さん・・・」
また人形から声がする。足がすくんで動けなかった。
この場から駆け去ってしまいたいのに足が動かない。悲鳴を上げたいのに声も出ない。
私はただ震えることしかできなかった。
電灯がふっと消えた。夕闇が室内を襲った。
「お母さん・・・」
魅入られたように私は人形の顔を見つめた。
今、確かに微笑みの形で半開きとなった人形の唇から言葉が漏れた。
「お母さん」とは叔母のことなのか?
年を経た人形には魂が宿るというが、この人形はそれほどの年代を経ているとは思えない。
せいぜい十五年から二十年。
そう、ちょうど静香がいなくなったのが二十年前。
人形の唇から、ゆっくりとガラスの眼に視線を移した。
あいかわらず足がすくんで動けない。
ガラスには、もう私の姿は映っていない。
私がまるで透明になってしまったかのように、後ろにある暖炉が映っている。
いや、それは今の暖炉ではなかった。
暖炉には火が赤々と燃えている。
そしてその前にかがみこんでいるのは叔母だ。
私は息をのんだ。自分は今、何を見ているのだろう?
炎の前にかがみこんだ叔母は、一心に暖炉の中を見つめている。
わずかに見える横顔が若かった。
叔母の視線の先を追った。暖炉の中で薪が燃えている。
薪?
薪にしてはそれはやけに太くないか?
それは妙に丸みを帯びていないか?
そして、それはまるで人間の体の形をしているように見えるのはなぜなのだろう?
「・・・・・よ。お母さん」
「・・・いよ。お母さん」
「熱いよ。お母さん!」
私は見た。それが焼き上げられていく様を。
炎が弱くなるたびにそれに灯油をさしていく叔母を。
叔母はその時笑っていた。
やがてそれは真っ黒な消し炭のような断片となっていった。
叔母は燃え残ったそれをひとつずつ拾い上げると、頬擦りするかのようにそれを自らの顔、胸に押し当て、
大切な宝飾品を扱うかのように布で磨き上げていった。
磨かれたそれは炭を落とされ、白く、冷たく輝いていった。
叔母の顔には私が目にすることが決してなかった凄絶な笑みが浮かんでいた。
稲妻が走り、突然、部屋の電灯がともった。
悲鳴を上げた私は体の自由が戻った。
何も考えず振り払った手が人形に当たり、人形がピアノから転げ落ちた。
私にはまた「お母さん・・・」というあの声が聞こえたような気がした。
床の上で粉々に砕けた人形の破片。
そのところどころに陶器とは色合いの違う、白さを持った何かが混ざっているのを私は見た。
それがなんであるのか、私はもう悟っていた。
若い頃の叔母が想像もできないほど激しい癇症を持っていたことを後に知った。
粗相をした猫、指をついた小鳥・・・。
私の母は、姉が思わず小さな生き物を踏みつけ、握りつぶすところを見て育ったという。
静香は何をしたのだろう? ちょっとした悪戯か、あるいは手伝いの時に皿でも割ってしまったのか?
私があえて考えないようにしているのは、「熱いよ」という言葉だった。
せめて、叔母が一時の勢いで手にかけてしまったのだと信じたかった、
頬を打ち、倒れたはずみの打ち所が悪かったのだと思いたかった。
それでも、私はその後、悪夢という形で、あのときの人形の眼に映った光景を見返すことになる。
そしてそのとき必ず、暖炉の中で燃え盛っているそれはまるで生きているかのように手足をくねらせていた。
「お母さん・・・! 熱いよおぉぉぉぉぉぉぉ!」
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