解剖は、どんな医師でもできるわけではない。解剖には解剖資格を取る事が義務づけられている。
長野のある山で遭難事件が起きた。
真冬のことだったので、遺体はかなり凍っていた。藤原氏が大学病院の解剖室で死因を確定することになったのだが、山岳警備隊が運んできた遺体はガチガチで、解剖台の上に置くとゴトリと音がした。
「大丈夫ですか」助手を買って出たインターンが器具を用意しながら聞いた。
運ばれてきたのは、まだ二十歳を過ぎたばかりという青年だった。
吹雪でルートを見失い、そのまま森の奥で倒れていた。
防寒のために何重にもなった服をハサミで切断すると触診を始めた。
まるで氷だった。
「だめだな」藤原氏は凍ったままでは解剖することはできないと判断し、病院のスタッフにお湯を持ってこさせると次々に遺体へそれをかけた。
「おい、君はマッサージだ」何をするのか藤原氏の意図を測れないインターンは、ぼうっとしているところを叱咤された。そのうちにバケツでお湯を汲んできた看護婦に『お湯掛け』を任せると藤原氏もインターンと共に遺体のマッサージを始めた。
「本当は熱い風呂に入れるのが一番なんだけど、さすがにいくら知り合いの病院でも、そこまでは無理だったな」
小一時間、マッサージを続けたところ少し硬直がやわらいできた。
すると遺体がクックッと唇から声を漏らしたのである。
ギョッとしたインターンに「今のマッサージで肺が刺激されたんだ」と告げると、さらにマッサージを続ける。
「先生、ちょっと休憩しましょう」ブッ続けでマッサージをしていた彼等の顔にも疲労が濃く浮かんでいた。藤原氏は、そうするかと頷いた。
しばらく腰を落ち着けていると、解剖室でゴツッという音が響いた。
見に行くと遺体が解剖室から落ちていた。藤原氏はインターンとふたりで遺体を引き揚げると再び、解剖台の上に置いた。そのとき、心なしか体位が変わっているような気がした。
「たぶん、落下のショックだろうと思ったけど、もともと遺体が解剖台から落ちること自体、ほとんど無い事なんだ」
ふたりはマッサージを続けた。すると、インターンが喉の奥で悲鳴を上げた。見ると遺体の手元を凝視している。
「手がな、上がってきたんだよ。温まって硬直したのが下がるのは理屈だけど、上がるのはな・・・」と藤原氏は言った。しかし彼は「単なる筋反射だ」と告げたという。「目から十円玉くらいの氷が出てきたな。たぶん、瞳に張り付いてできた氷だと思うけど」
結局、解剖を始める事ができたのは夜九時を回っていた。
翌朝には地元の警察に死因を報告しなければならないということで、解剖はその晩に行わなければならなかった。
「まず触診してから、身体の正中線を切り、肋骨のカバーを取り外すんだ。肺と心の重さと色を調べてから、胃と腸、頭蓋をノコで削って脳味噌に向かうんだな」
大方の臓器を調べ、生タコのように取り留めもなく動く小腸を調べているとインターンがゲーッと声を上げた。気分が悪くなったのかと思った藤原さんは、「我慢しろ」と言ったが顔を上げるとインターンの白衣の裾が遺体に握られていた。
「俺も今まで三千体ほど解剖したけど、あんなことは初めてだった」 藤原さんは「硬直だ。ビクビクするな」と言ったが、ふたりとも一度硬直が外れた死体が立て続けに硬直することなんか理論的にないということを知っていた。
「その直後だよ」
気管も食道ごと抜いてる遺体の頭蓋を閉めようと脳を戻し、縫合をしようとした瞬間、
「ゲラゲラゲラッって笑いやがった」
誰が?チャックを閉められたようになった遺体がである。
驚いたインターンが手を話すと、パックリ頭蓋が口を開けてしまい、脳が床に落ちてしまった。紙のように白くなったインターンの顔があった。
「奴は無言のまま、廊下に出るとストーブの前で座りこんでしまった。
追いかけて行って、『おい、今のは単にガスが声帯を揺らしただけななんだぞ!何でもないよくあることだ』って声を掛けたけど、無理だとわかったよ。俺の声自体ブルブル震えてたからな」
結局、明るくなるのを待って解剖は続けられた。ふたりは解剖室の前の廊下で『仮通夜』をした。
「翌朝、電話で解剖の許可を取り付けてもらっておいた家族が玄関を入ってきたときに、アッって声を上げそうになった。ソックリの兄貴がいたんだな。インターンの奴なんか今にもブッ倒れちまいそうだった。兄貴が『昨日、夢に弟が出てきて、ふたりでゲームをしたり冗談を言い合ったりして、しっかり別れを済ませてきました』って言うんだな。これぐらいかな、変な話は」
藤原さんは、今も長野で暮らしている。
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