大正時代の始め頃、東京の京橋に「画博堂」という書画屋があって、そこの3階には同好の志が集まって持ち寄った怪談話をかわるがわる話し合うということがよく行われていた。
ある日、その画博堂に見なれない男がやってきて、自分にも話をさせてくれと言う。どんな話かと聞くと、田中河内介の話だという。田中河内介は明治維新時の知られざる尊皇志士のひとりである。その男は、「田中河内介が寺田屋事件のあとどうなってしまったかということは話せばよくないことがその身にふりかかって来ると言われていて、誰もその話をしない。知っている人はその名前さえ口外しない程だ。そんなわけで、本当のことを知っている人が、だんだん少なくなってしまって、自分がとうとうそれを知っている最後の人になってしまったから話しておきたいのだ」と言う。
始めは、よした方がいいなどと、懸念してとめる者もいたが、大半の人々が面白がってうながすので、その男が話を始めた。前置きを言って、いよいよ本題にはいるかと思うと、話はいつの間にかまた元へもどってしまった。河内介の末路を知っている者は、自分一人になってしまったし、それにこの文明開化の世の中に、話せば悪いことがあるなどということがあるはずもない。だから今日は思い切って話すから、是非聞いてもらいたい。というところまで来ると、またいつのまにか始めに返ってしまって、田中河内介の末路を知っている者は、と話し出す。なかなか本題にはいらない。その間に、一座の人が一人立ち、二人立ちしはじめた。別に飽きたから抜けていくというわけではなくて、用で立ったり、呼ばれたりして立ったのだそうだが、私の父も自宅から電話がかかってきて下に呼ばれた。
下におりたついでに帳場で煙草をつけていると、又あとから一人おりて来て、まだ「文明開花」をやってますぜ、どうかしてるんじゃないかと笑っていると、あわただしく人がおりてきた。偶然誰もまわりにいなくなったその部屋で、前の小机にうつぶせになったまま、彼が死んでしまったというのだ。とうとう、河内介の最期はその人は話さずじまいであった、というのである。
田中河内介の最期
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