母屋とは切り離され、敷地の北東の角、つまり鬼門にあたるところにその厠は建っていた。
今でこそ、田舎でも簡易水洗のおかげで明るく、清潔なトイレに変身したが、ほんの数十年前までは、薄暗く、不潔な汲取り式の便所が大半だった。
Kさん宅の厠も、壁はところどころ地肌が見えるほど痛み、苔むした屋根瓦の何枚かは今にも落ちそうだった。
申し訳程度の小さな窓しかない古い厠は昼間でも薄暗く、鼻をつく匂いが澱のように淀んでいる。
日が暮れると、天井からぶら下がる、わずか10Wほどの明るさしかない裸電球が、弱々しく陰気な光で厠の内部をぼんやりと照らしているのだ。
*
どうして日本の便所は、こうも陰気くさいのだろう。
不浄のものとして、人間が住む母屋とは一線を画しているのは理解できぬこともないが、これほどまでに物の怪の巣窟のごとき暗さ、無気味さを与えることはないと思うのだが…。
今回の不思議は、数十年前のO県の片田舎、典型的な農家で起こった。
O県は瀬戸内に面した温暖の地で、天変地異も少なく、米や野菜作りはもちろん、果樹栽培も盛んで農業県として穏やかに発展してきた。
Kさん一家は、この地で先祖代々お百姓として田畑を耕してきた。
来る日も来る日も、農家の暮らしは変化がない。
お爺ちゃんお婆ちゃんをはじめ、嫁いできた嫁や、家にいる手のあいた者は朝早くから畑に出かけて行く。
若い者は野良仕事より街に働きに出ることが多く、子供たちは学校へ通っているので、家は日が暮れるまではもぬけの殻になる。
一番早く家に帰ってくるのは小学校の子供だが、下校してもだれも家にいないことを幸いに、ランドセルを投げ込んだあとは近所の悪ガキたちと真っ暗になるまで鬼ごっこやチャンバラで遊ぶのが常だった。
その日も、いつもと同じように、Kさん宅の小学生Yちゃんは日が傾いても近所の友達たちと原っぱを歓声をあげながら駆けまわっていた。
「…い、痛ててっ!」夢中で駆けていたYちゃんは、お腹を押さえて立ち止まった。
どうしたのだろう?お昼に食べた弁当にあたったのかもしれない。
お腹を片手で押さえながら、無理をしてしばらくは走り回っていたのだが、どうにも我慢できないほどシクシクと痛みが広がっていった。
下腹部を断続的に襲う痛みのため、下半身はだるくなり、走ることもできなくなってしまった。
そして、腹の痛みとともに激しく便意も催してきた。
Yちゃんは「オレ、ちょっと腹が痛いから厠へ行ってくるわ」と友達に言い、上半身を折るように腹をさすりながら家へと急いだ。
Yちゃんは誰もいない家に駆け込み、ズック靴を脱ぎ散らかして一目散に座敷を抜け、縁側のつっかけを履いて庭の隅にある厠へ飛びこんだ。
腹の痛みは頂点に達し、同時に便意も我慢の限界にきていた。
小柄なYちゃんは、厠の和式の方で両足を思いきり広げて踏んばっていた。
当時の便所は汲取り式で、便所の床の真ん中に縦長の穴があいていて、1~2メートルばかり下に汚物を溜めておくようになっている。
昼でもうす暗く、鼻がひん曲がるような匂いが充満している厠。
なによりも恐いのはその長方形の穴の下で、そこには真っ暗な闇が果てしなく広がっていて、子供にとってはポッカリと開いた地獄の入り口のような無気味さがあった。
そんな厠にまつわる怪談は数限りなくあって、厠へ行くたびに思い出したくない恐い話を、なぜか完璧に思い出してしまうのである。
しゃがんでいると、「青い紙やろか…赤い紙やろか…?」という、か細い女の声が尻の下の闇から聞こえてくる…というのもそのひとつだ。
それは黙っていると、しつこく何べんも聞いてくるという。
あまりの恐ろしさに、つい「あぁぁぁ、青い、紙を…」とか言ってしまうと、真っ暗な闇の中からニューッと青白く痩せた腕が伸びてきて、しゃがんでいるお尻を冷たい手でなでるというのだ。
子供たちの間で流布しているなんの根拠もない怪談話なのだが、小さな子は親の言うことよりもしっかりと信じていて、夜の厠などは絶対に行かないと駄々をこね、オネショをしてしまう子が多かった。
Yちゃんはうす暗い厠で用を足しながら、額には腹痛の脂汗と薄気味悪さの冷や汗を交互にかきながら、思い出してしまった怪談の拷問に必死に耐えていた。
足元にポッカリとあいた闇の中からは、「青い紙…」という声が今にも聞こえてきそうな気配である。
ブルブルと体が震えるのは、腹の痛さだけではないようだ。
ぼんやりと照らす裸電球にからんだ蜘蛛の糸が、女の長い髪のように見える。
毒々しい色の蛾が、その灯りに誘われてパタパタと舞っている。
そんな恐ろしさに押しつぶされそうになりながらも、Yちゃんはなんとか用を足すことができた。
心細さに泣きそうになりながらズボンをあげ、またいでいた恐怖の穴から急いで足を戻そうとした。
その瞬間!
長い間しゃがんでいたため、両足はジンジンと痺れて自由がきかなくなっていることを忘れていた。
自分の足なのに自分の足でない感覚。
痛がゆいような痺れが足の踏んばりを奪い、あろうことかポッカリとあいた地獄の穴の縁に片足を引っ掛けてしまった。
あっ!という間もなくYちゃんはバランス崩し、その穴にペタリと座り直すような格好でふたたび尻から着地した。
尻を落としたところが床ならドシンと倒れるだけだが、あいにく尻は地獄の穴の真上だった。
「うわっ!」と大あわてで何かにしがみつこうとするが、子供にとっては大きすぎる穴である。
体のあちこちをこすりながら、ストンと吸いこまれるようにブラックホールに落ちていった。
グチュッ!という水気の多い、嫌な音を立てて、Yちゃんは穴の底に軟着陸した。
突然、真っ暗な空間に放りこまれたショックで茫然としていたのもつかの間、すぐに強烈な匂いの中で、汚物まみれという最悪の状態に気がついた。
「うっわー!!!」先ほどよりも数十倍大きな叫び声をあげたが、声はむなしく無限とも思える暗闇に呑み込まれてしまうだけだった。
落ちた穴は頭上に長方形のかたちをつくっているが、下半身がズボッと埋まっているので手が届かない。
それはYちゃんにとって、厠の怪談なんか比べものにならないほど現実的な恐怖だった。
しかも、さらに恐ろしいことが起こっていた。
ズズッ、ズズッ…と、徐々に体が汚物の中に沈んでいってるのだ。
手の甲には、何やら蛆のようなものが這っているような気配さえする。
「だ、だれかー!お父さーん、お母さーん!!」
もしかして、このまま誰にも気づかれず、ここに埋もれて死んでしまうのだろうか…。
絶望的になりながらも、Yちゃんは落ちてきた長方形のかたちに向かって、大声でベソをかきながら助けを呼ぶしかなかった。
*
西の空を茜に染めあげ、遠くの山の彼方に大きなオレンジ色が没した。
田んぼの稲をおじぎさせながら渡ってきた風が、野良仕事をした顔に心地よくそよぐ。
汚れた手ぬぐいで顔を拭き、Kさん一家の長老であるお爺ちゃんはみんなに声をかけた。
「おーい、もう今日はよかろう。早よう上がって家に帰ろう」
畑ではお爺ちゃんが一番えらい。
野良仕事のリーダーとして、すべてを仕切っているのだ。
その一声を待ちわびていたかのように、みんなは腰を伸ばし、思いきり背伸びをしたり、ずっと曲げていた腰をトントンと叩いたりして帰り仕度をはじめた。
うねうねとした畦道をお爺ちゃんを先頭に、みんなは一列になって歩く。
遠くに防風林に囲まれた我が家が見えてくる。
小学生のYちゃんを除いて全員が野良仕事に出ているので、家は黒いシルエットとなって夕闇に溶けこもうとしていた。
隣の家では夕餉の仕度なのか、かまどの煙がゆらゆらと立ち昇り、温かそうな白熱灯の光が窓から漏れている。
だんだんKさん一家が家に近づくにつれて、奇妙な音が風に乗って途切れ途切れに聞こえてきた。
それは、ヒィー…ヒィーン、ヒィー…という、甲高い笛のような音だった。
「ん?なんだ、あの妙な音は…」
先頭を歩いているお爺ちゃんは、音の正体を見透かすように家の暗闇に目を細めた。
遠目に、小さな人影らしきものが目に入った。
厠のそばに、どうやら人がいるようだ。
しかもヒィー、ヒィーン…という奇妙な音は、その人物がたてる悲しげな泣き声だということが分かった。
「もしかして、あれは…」お爺ちゃんは担いでいた鋤を投げ捨て、泣き声の主の方へと走りだした。
あとの家族もそれにつられ、殿様のあとを追う家来のようにお爺ちゃんについて一列のまま走った。
それが孫のYちゃんであるということは、近づくにつれて明らかになった。
「おーい、どうしたぁー!」家族は口々に叫びながら、その異常な泣き声に引き寄せられていった。
そこにはなんと、泣きじゃくるYちゃんが無惨な姿をさらしていた。
下半身は汚物にまみれてグチャグチャになっているし、顔や髪の毛にまで汚れは飛び散っている。
なによりも全員がうっ!声をつまらせたのは、信じられないような糞便の匂いである。
Yちゃんはお爺ちゃんの姿を見て安心したのか、さらに大きな泣き声をあげ、お爺ちゃんに抱きつこうとしてヨロヨロと近寄ってきた。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待てぃ!!」孫を溺愛するお爺ちゃんではあるが、さすがにその突撃を手で制し、まずは井戸の方に連れて行った。
Yちゃんを素っ裸にして、頭から足先までザァザァーとなんべんも水を汲んでは汚物を洗い落とす。
幾分、匂いは残ってはいるものの、数え切れないほど水をかけられたYちゃ
んが盛大なクシャミを立て続けにしたのを潮に、やっと家の中に入れてもら
った。
*
今度は恐さではなく、寒さのために震えているYちゃんに温かいものを飲ませ、毛布を頭からすっぽりと被せて落ちつくのを待った。
汚物まみれになっていたのは、厠か肥え溜めに落ちたのに違いないのだが、どうしてそんな事になったのか、お爺ちゃんを筆頭に家族全員、まだ少し鼻をつまみながら、Yちゃんが口を開くのを今か今かと待っていた。
広い座敷で、意味は違うが家族全員が息をつめて真ん中のYちゃんを注視している様子は、なんだかスターの記者会見のようでもあった。
悲劇の主人公Yちゃんも少し勘違いして、何かヒーローになったかのような高揚した気分になっていた。
お爺ちゃんは、やさしく尋ねはじめた。
「…で、おまえは、一体どうしたんや?」
まわりを囲んだ家族の視線が、Yちゃんの口元に釘づけになった。
まるで、舞台の俳優が長い独白をはじめるときのように、Yちゃんはたっぷりと間をとってから、小さな声で話しはじめた。
そして、それは驚くべき話だった。
その奇妙で、なんとも不思議な話は次のとおりである。
Yちゃんは遊んでいたときに腹痛に襲われ、急いで走って帰り、厠へ飛びこんだという顛末から話しはじめた。
用を足したあと、足が痺れてけつまづいた拍子に、運悪く穴からストンと落ちてしまったことも…。
しかし、ここで、どうしてもみんなが理解できないことがあった。
下半身がズブズブと沈んでいき、とうてい落ちた穴には手が届かないのに、どうして家族が帰ってきたとき、厠の外で泣いていたかということである。
お爺ちゃんをはじめ、みんなは訳の分からない、辻褄の合わない話に困惑していた。
Yちゃんは、ここぞとばかりにさらに息をひそめ、話のクライマックスをポツリポツリとしゃべりはじめた。
小学校低学年にして、なんという演技力だろうか…。
「もう、だめかなと思った…。手は届かないし、もがけばもがくほど足元が グジュグジュと地割れみたいに柔らかくなって、体が沈んでいくんだから」
「そうは言うけど、おまえは厠の外にいたんだよ…」
お爺ちゃんは、不思議そうな顔をしながらいきなり核心に触れた。
家族は全員、ズリッと畳の上の膝を進めた。
「うん、僕も、もう出られないと思った…。
ひょっとして、このまま少しづつ沈んでいって、頭まで沈んで、厠で死ぬ のかなぁと思った。そんなの絶対に嫌だと思って必死で叫んでいたんだ。
…するとね、その時ね、真っ暗な穴の中がフワーッと明るくなったんだ」
Yちゃんは家族の顔をひとりづつ順番に観察しながら、反応を確かめるようにしゃべっている。
「それでね、何かなと思ったんだ。太陽が射しこんだのか、誰かが帰ってき て懐中電灯で照らしてくれたのかなと思ったんだけど…。 そうじゃなかったんだ…」
「それ、何だったの!」と母親が言葉をはさむのを「しっ!!」と、お爺ちゃんはきつく制した。
「僕の背中の方からボンヤリと光っているようなので、そっと振り返ってみ たんだ。そしたらね…、信じないと思うけど、ホントなんだ…。
白い…白い着物を着た人がいたんだよ。
その白い着物がボーッと光ってたんだ。
その人の顔も、体全体が中からボーッと光ってたんだ…」
「それでね、その白い着物の人が僕にスゥーッと近づいてきてね、手を伸ば したんだよ。そうしたらね、僕の体がね、だれも触ってないのにフワーと 上へ浮かんでいったんだ…、ほんとに浮いたんだ。
それで、落ちた穴からスポッと抜けて、厠の床に降ろしてくれたんだよ」
一気に話し終えたYちゃんは、息を切らしたかのようにハアハアと口で呼吸をしていた。
お爺ちゃんも、お母ちゃんも…家族のだれもが、不思議なYちゃんの話に言葉を返せないでいた。
厠の床に降ろされたときには、もう白く光る着物の人は消えていたという。
Yちゃんは、すぐに恐ろしい厠から逃げ出し、外でみんなが帰ってくるのを泣きながら待っていたというのだ。
子供の作り話にしては、話の細部がはっきりとしていたし、矛盾もない。
まあ、話自体があり得ないようなことなのだが…。
お爺ちゃんは、やがて破顔し慈悲に満ちた笑顔を見せながら、Yちゃんの頭をなでながら言った。
「…そうかぁ、よかったなぁ、助けてもろぉて。
おまえを助けてくれたんはなぁ、守護霊様といってな、おまえをずぅーっ
と守ってくれている人なんじゃ」
「ええか、忘れるなよ。おまえにはいつも守ってくれるご先祖様がついてい
てるんじゃ…」
お爺ちゃんの妙に説得力のある話に、その場にいた者はみんな、そして当のYちゃんも素直に納得し、何度も何度もうなづくのだった。
事の真相は、だれにも分からない。
幼い子供の言うことは、やはり大人には信じがたいことであった。
しかし、何かが起こって、Yちゃんが助かったことだけは確かなのである。
終わりです..長過ぎましたね。
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